2001/08/14 (Tue) 16:20
寺山修司少女詩集より 「飛行機よ」 を読んで
あまり詩集には縁のない私なのですが、寺山修司さんの「飛行機よ」という詩が好きです。
詩そのものを読むことはあまりなかったのですが、
合唱部時代に歌った歌の詩が好きになることはありました。
この詩も学生の頃、合唱で歌った中にありました。
妙にしっくりときて、歌いながら、泣けてきたのでした。
今読んでもやっぱり、好き、というか、妙にストンと心に収まる感じがします。
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「飛行機よ」
翼が鳥をつくったのではない
鳥が翼をつくったのである
少年は考える
言葉でじぶんの翼をつくることを
だが
大空はあまりにも広く
言葉はあまりにもみすぼらしい
少年は考える
想像力でじぶんの翼をつくることを
いちばん小さな雲に腰かけて
うすよごれた地上を見下ろすと
ため息ばかり
少年は考える
リリエンタールの人力飛行機
両手をひろげてのぼったビルディングの屋上に
忘却の薄暮がおしよせる
せめて
墜落ならばできるのだ
翼がなくても墜(お)ちられるから
ああ
飛行機
飛行機
ぼくが
世界でいちばん
孤独な日に
おまえはゆったりと
夢の重さと釣合いながら
空に浮かんでいる
(角川文庫 「寺山修司少女詩集」P.127~129 より 引用)
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「墜落ならばできるのだ
翼がなくても墜(お)ちられるから」
このフレーズを見た時、妙に納得して、ホッとしたのです。
その当時はなぜだか解らなかったですけど。
この詩に出会ってから10年ほど経った今、
なぜあのフレーズにホッとしたのか、
少し解るような気がします。
その当時、私の自覚できる意識の中には「自殺」という選択肢は存在しなかったようです。
「自殺」とまでいかなくても「失敗する」ということも、あってはいけないこと、と
思っていたように思います。
あの詩を読んだ時
「そうか、墜ちることはいつでもできることなのだ」と、
初めて気付いたように思います。
そして、失敗せずに生きなくてはいけない、とがんじがらめになっていた状態から、
ふっと力が抜けて、楽になったのではないのかなあと。
その当時も今も、自殺や失敗をしたいと、自意識上では思っていないと思います。
ですが、自殺も失敗も許されない、この生き方の選択肢しかない、と思って生きることと、
この生き方以外の選択肢もあるのだ、と知って生きることとでは
(それが自殺や失敗であっても)
何かが違うように感じるのです。
多分、
自殺を選択肢の1つと考えることは間違っていることだとは思いますが・・・。
私自身、自殺でなくても子どもに先立たれた家族の哀しみを、
身にしみて感じてきましたから。
今の私は、生きる意味ややりたいことも感じられない状態ですが
とりあえず、
親を哀しませるのは嫌、
親には普通に働いて元気にしているように見せておきたい、という、
消極的な理由で、仕事も辛うじて続けているという感じです。
そして、何より、死ぬ勇気もないから自殺を考えたことはありません。
でも、うまく説明できないけれど、
自意識上の辞書に「自殺」という単語があるのとないのとでは、
何か、違うように思うのです。
実際に使うことのできない、使うべきではない最後の「鍵」を、自分で握っているような、
そんな感じなのでしょうか。
いつか、私が自殺を考えることがあったら、もう一度、この詩を読むことと思います。
そうすれば、「墜ちることはいつでもできるのだから」と感じたことを思い出して、
「いつでも墜ちられるのだから、今でなくてもいいじゃないか」と、
自殺を思いとどまることができるかも知れないなあ、と思うのです。
(でも、詩のことを思い出せる余裕があるくらいなら、
まだ本気で自殺は考えていないということなのでしょうか?)
何だか、逆説的で、書いている本人もよく解らない文章になってしまいました・・・。
まだ、自分の中で整理しきれていないことなのでしょうね。
でも、途中まででも、吐き出したかったのでしょう。
今はただ、まだ理由はよく説明できないけれど
自分の心にぴたりとあう詩に出会えたことに、感謝しています。
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